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入試の公平性とは~積極的差別是正措置に関する米国違憲判決をきっかけに~(コラム#024)

入試は公平であるべきであるが、どの選考法にも光と影の両方があり、誰もが納得できるような正解はなかなかみつけられない。せめて、選考プロセスを透明にすること、オープンに議論をすること、そして、課題がみつかれば不断に見直していくことを地道に続けていくしかない。(ソーシャル・コモンズ代表 竹本治)



 米国の連邦最高裁判所は、先月、学生団体がハーバード大学(私立)・ノースキャロライナ州立大学(公立)を相手取った訴訟において、人種を考慮に入れる入学選考方式(「積極的差別是正措置」、所謂『アファーマティブ・アクション』)について違憲との判断を示した。バイデン政権及び米国の多くの有力大学においては、この判決については反発の声が強く聞かれるが、今後の入学選考方法は大幅な見直しを迫られることとなる。


 本件は、米国の人種差別の歴史のみならず、長年の法律的な議論を含む、多岐に亘る論点があり、筆者の力量ではそこまでとても論じることは出来ないが、以下、若干思うことを述べてみたい。


 著名な大学、あるいは有力な組織等に入れるかどうかというのは、その個人にとって大きな意味を持つことが多い。そうした団体が社会の公器である場合にはとりわけそうであるが、選考プロセスは公平であるべきと考える人が大多数であろう。


 しかし、何が「公平」なのか、については様々な物差しや考え方がありうる。


 例えば、日本の大学入試では、同じ試験問題を解き、一点でも高い点をとった受験生から順番に合格を認めていく、というのが一般的であるし、そうしたやり方が公平だと考える人は多いであろう。だからこそ、試験問題にミスがあったりすることは大問題になるし、また、共通テストなどで科目間での平均点が大きく違う場合には調整することさえ行われる。


 得点の高い受験生から合格させることは、確かに納得感はある。しかし、例えば、貧困家庭においては、塾通いも含めて、そもそも勉学の環境に恵まれないといった事情があるかもしれない。つまり、富裕層の子女ほど、一般的には、高得点をとるための訓練を受けやすい教育環境・家庭環境にいるといえる。本人がたゆまぬ努力をして得点力に繋げたことを否定するものでは全くないが、マイケル・サンデル氏のいうように「実力も運のうち」かもしれないのである。そこまで考えると、得点の高い順に機械的に合格させていくという選考法で、(色々な家庭環境にある)受験生の間の公平性を実質的に保てているのかどうかは、なんともいえない。


 米国の積極的差別是正措置は、人種差別の歴史を踏まえ、最初は公務員の採用を対象として、一定程度、結果の平等を促すために1960年代に導入されたものとされる。それが大学入試の選考にも拡充され、受験生の個性の一つである「人種」という括りで、大学進学率等の格差を人為的に是正しようと運用されてきた。制度としては欠点も色々あって、州によっては廃止されたところもあるが、米国に根深くある人種による社会的格差の固定を是正する機能を一定程度果たしてきた。


 今回の訴訟では、所謂保守派は、「黒人に対して、白人が割を食っている制度だ」とせずに、巧みに「アジア系米国人が割をくっている」という立論をメインにしたことで、作戦勝ちした。リベラルな立場からみれば、明らかに、白人優位の社会の固定化を実質的に助長しかねない判決となったのであるが、成績優秀者の多いアジア系が長年に亘って非常に不公平な取扱を受けてきたのはまぎれもない事実である。新たな物差しを作る必要があろう。

 米国の有力大学の選考では、かつてはSATといった共通テストの成績で合否を実質的に決めてきたのが、課外活動やエッセイを重視するようになった。これは、学生の総合的な力や個性を見極めることで、様々なバックグランドを持つ学生をキャンパス内に増やし、そうした多様性を持つ環境を通じて学生同志が学べるようにするため、と説明されている。


 確かにそういう側面はあり、近年の多くの大学においては、本気でダイバーシティの確保のために積極的にこうした選考法を活用していると考えられる。


 一方、こうした選考法であっても、実態としては、課外活動等を積極的に行う余裕のある白人富裕層の子女にとって相対的に有利な選考法となっている。また、共通テストの得点だけで選考すると、学業優秀なユダヤ人の比率が非常に高くなってしまうので、それを避けるための便法として編み出された選考法であったとも言われている。


 日本では、数年前に、複数の大学の医学部の入試で、実質的に女性差別を(一部では浪人生差別も)長年に亘って行ってきたことが明らかとなった。得点の高い順に合格させていくという選考の仕方を標榜しておきながら、そのような差別を行ってきたことは言語道断である。


 一方、最近では女性活躍の観点から、女性の入学定員を拡充する動き等も出てきている。筆者は、このような積極的な是正措置があって初めて、日本社会は変わっていくものと考えてはいるが、どの選考法でも光と影の両方がある。入学定員というものがある以上、どんな理由に基づくのであれ、誰かを合格させれば、その分、入れなくなる人が必ず出てくる。


 新たな選考法への信頼を確保していくことは非常に重要である。


 誰もが納得できる正解はなかなかみつけられないが、せめて、選考プロセスを透明にすること、オープンに議論をすること、そして、課題がみつかれば不断に見直していくことを地道に続けていくしかないのであろう。

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