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大正15年夏~ある移民の話(コラム#037)

友人(日系4世)の曾祖父は、日本の片田舎から米国に移民した。曾祖父は、生涯に一度だけ日本に一時帰国したが、その際、義父から「惜別の辞」として自筆の漢詩を贈られた。今回それを翻訳する機会に恵まれたが、100年前の二人の男の友情に涙した。(ソーシャル・コモンズ代表 竹本治)




移民の問題は、米国大統領選でも大きな争点となっている。日本でも、労働力不足を解消していくために「もっと移民を受け入れるべきかどうか」といった議論もある。

 本稿は少し視点を変えて、日本の片田舎から米国に旅立った、ある移民家族のことを紹介したい(登場人物名等は仮名)。


以下は、米国に住むMieko(日系3世、80歳)が、亡き母マリ(日系2世、1920年生)から伝え聞いた話である。

「父(藤田サブロウ、日系1世)は、母(アヤ、日系1世)とまだ幼かった子供たち4人を連れて、夏の日本を訪れた。米国アイオワ州に移住して十数年が経っていた。ようやく米国での生活も安定してきたが、サブロウが、自分の家族を連れて故郷・岡山の土を踏んだのは、生涯でこのときが最初で最後だった。」


当時6歳だったマリ(日系2世)は、この時に一度だけ会った日本人の祖父・平治の姿を鮮明に覚えている。とても穏やかで、教養のある文化人だったという。


「米国からの船が着くと、祖父・平治が出迎えにきてくれていた。ママのお父さんに会うのは特別なことだった。ほとんどの日本人は小柄で背が高くない。でもママのお父さんは背が高かったから、人ごみの中に立って私たちに手を振っているのが見えた。ママは彼を見て手を振り、祖父も私たちに手を振ってくれた。私たちは、彼の待つ場所まで連れて行ってくれる小さなボートに向かった。人ごみを抜けるのに、とても時間がかかった。」




Miekoは、漢詩が書かれた板を、祖父サブロウと祖母アヤの形見として大切に持っていた。「平治が作った」と亡母マリから伝え聞いてはいるが、日系3世のMiekoは日本語が全く読めない。親戚のRob(日系4世)には、日本人の親しい友人がいるという。その友人に漢詩を託した。


以下、その漢詩の現代語訳である。


「子供や女性のような温かい心を持った男

英雄のような勇敢な意志を持つ男

そして まっすぐな行動をする人

あるいは 聞き上手

あるいは 寛大な男

それはすべて、ありのままの君


大正丙寅仲夏 

藤田君に贈る」


 そう、この漢詩は平治の書いた詩であった。大正・丙寅の仲夏(大正15年<1926年>の6月6日~7月6日頃)に、藤田サブロウとその家族が故郷に一度だけ戻ったときに、平治が、義理の息子であるサブロウに、もう会えることはきっとないだろうと思いながら「惜別の辞」として贈ったものであったのだ。


 今年80歳になるMiekoが亡母から伝え聞いていた話――幼かった頃に夏の日本に行ったこと、祖父・平治に一度だけ会ったこと…――と全て符合した。100年前の日本で実際にあった話である。



 農家の三男坊であったサブロウは、渡米する前に、平治の下で数年間働いた。そして、農業で一旗揚げようと、平治の愛娘のアヤと結婚して米国へと旅立った。それから10数年後、強い信頼関係で結ばれていた二人の男は、束の間の再会をしたのである。


 サブロウは、この「惜別の辞」を大切にしながら米国で残りの生涯を過ごし、漢詩の書かれたその板は、生粋の米国人となった孫・曾孫の代まで残った。


 平治やサブロウの子孫であるMiekoもRobも、そして漢詩の翻訳を託された筆者も、100年前に交わされた男たちの友情に感じ入り、涙した。



移民については、ついつい「移民問題」とか、他人事としてとらえてしまいがちである。しかし、どの家族にもこのようなドラマがきっとあるはず、そういったことに思わざるを得ないエピソードであった。

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